今日も一日暑かった。昼下がり、あまりに暑いので私は、豆を挽いてアイスコーヒー作った。グラスにたっぷりな氷を入れ、カランカランとする音をききながら、夏の午後の静かな時間を過ごしていた。
しばらく落ち着いたところで、電話が鳴る。
見慣れない番号なので、たぶん、ヨガの問い合わせかもしれないと思い、私はワントーン高い声で電話に出た。
「はいひやねです、お問い合わありがとうございます!」
「あのぉーヨガの体験をしたいのですが、、、」
と、想定どおりの問い合わせに、心が弾む。しかし、声が小さくて、なんだか元気がない気がした。当たり前か。見ず知らずの人(私)への電話は、誰だって緊張する。いつものように、ヨガの説明をし終わったところで、
「先生は乳がんを経験されたんですよね、何かアドバイスとかありますか?」と聞かれた。
はっと我に返り、そうかそうか…と私は悟った。
不安の中にいる彼女に少しでも希望を与えてやりたい。今の私にできることは何か。そう考えながら、私は10年前の記憶を蘇えらせ、不安の中で膝を抱えうずくまる自分の姿を思いだした。それから、ゆっくりと彼女の話しに耳を傾けたのだ。
(北海道の友人からの写真がピコン、菜の花畑!)
2012年、私は右乳房を全摘出(全部切取る)手術をした。ステージll (大きさ2cm、転移なし)と診断され、温存手術(癌の部分だけ摘出)は、薦めない、とはっきり言われた。全摘出なんて絶対に嫌だ、と思ってた私は、セカンドオピニオンとして、あと2箇所(計3ヶ所)の病院を受診した。
もちろん、「温存手術で、充分だ、大丈夫だから」と言ってくれる先生を求めてのことだった。
しかし、2箇所の病院で、打ちのめされた。
なんと、一つ目の病院では、手術前に抗がん剤治療と言われ、二つめの病院では、手術後に抗がん剤治療と言われたのだ。どちらの病院でも、全摘出手術と抗がん剤治療がセットだと言う。嘘でしょ⁇ 私はこんなに元気なのに…。
力が抜け、先生の前で、ぽろっと涙が落ちてしまった。
結局、最初の病院の先生の指示に従うことにした。右乳房を全部切り、乳房再建(人工乳房)手術を同時に行った。抗がん剤治療は、行わなかった(先生も同意してくれた)。
これまで病気知らず、至って健康な私、親も親戚もガン患者なんて一人もいなかった。どうして私だけが。と悔しくて爆発しそうだった。家に帰って、思いっ切り泣こう、とおもいきや、今度は恐怖心が一揆に沸いてきて、まったく涙が出ない。私は死んでしまうのだろうか…。
そのときの私は、10年後の自分の姿なんて想像出来なかった。先ずは5年。「神様どうか5年だけでも生存させてください」出来れば、このまま自由に動ける身で。それからあとのことは、神様にお任せしますので。どうかお願いします。私は、まるで5年間の執行猶予期間をお願いしたような気分になったのだ。
その頃は(今は違う)、化学治療をしないことは、再発のリスクも半々だといわれた。それもわかりつつ、それよりも私は、余命5年で自分がどれだけ自由に活動できるか、ということに賭けたかったのだ。不思議なもんで、決断してからは、不安がなくなった。決断するまでの、選択肢がいくつかある状況の方が、はるかに不安で苦しく辛かった。
決断してからの5年間は、あっという間で、もの凄いスピードで進んだ気がする。とくに、人との関わりやお付き合いには注意した。エネルギーを吸い取られるような人とのお付き合いは注意をした方がいい。
それが家族である場合もある。私の場合、大好きな母がそうだった。人生の価値観がそれぞれ違うように、母親は病院の言う通りに治療することを求め、仕事をやめ活動を控えるように言った。会うたびに癌の話になる。
しかし私は、自分の意志で、自分の決断した道をすすみたかった。後ろを振り向き、また不安な渦に巻き込まれることが怖かったのだ。
無我夢中になれること。
自分の意思でがんばれることは、幸せなことだと思う。
今度「先生のアドバイスっありますか?」と聞かれたときには、そう答えたいなと思った。えっへん!
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。生きているといろいろありますよね。でもはっきり言えることは、自分の寿命なんてわからないし、不安や問題は、繰り返され、起こると言うこと。今でも、次々に問題を抱え生きてる"50代おかん"です、笑。日常に起こる出来事、小さな点と点を繋いでいく、そこを見落とさず、自分らしい人生を形にしていく…。そんなことを、毎日のヨガや日記をつけることで気付けるようになりました。自分らしさとは何か。いまいち分からない動けないあなた、いっしょにはじめませんか。まずはヨガからでも…。